ナビ1
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お詫び&再スタート [2014.2.25]
本ホームページを立ち上げてから、早いもので8年9か月がたちました。
このナビ1「心を楽にしてくれる考え方」では、フロイト、ユング、アドラーの深層心理学の3巨人にフランクル、エリクソンを加えた5巨人の考え方を紹介していく予定でした。
まず、フランクルを7回にわたって紹介する予定で始め、第5回まで書きましたが、後が続きませんでした。目先の仕事をこなすのに手一杯で時間の余裕がなかったり、したいことが増えて、こなしきれませんでした。
ナビ8「日記」ページなどで書きましたが、ここ数年「進化する密教(仏教)」という視点から「アート鑑賞セラピー」に役立つ作品を創っていましたが、ようやく公表して多くの人々に役立てていただける段階に入り始めました。
まず初めに手づくりのフリーマーケットサイト「テトテ」に載せたことにともない、ナビ7「アート鑑賞セラピー」を新設し、『「男と女」の10段階説』をナビ12として一部削除、修正、加筆などをして第1回から順に掲載し、読みやすい構成にしました。
他のページにも未修正で気になっている個所があり、この際、思い切って各ページを見直して、順次、修正、加筆、工夫し、さらに役立つものにしていきたいと思います。
今後は上記の5巨人についてはナビ3で載せていき、本ナビ1では「心を楽にしてくれる考え方」であればジャンルを問わずに紹介していきたいと思っています。
下記のフランクルの5回は女子高校生から体験談(ナビ5)をいただいたように、実行して心が楽になり、お役にたっているようですので、しばらくはこのままにしておきたいと思っています。なお、第1回から順に掲載し、一部修正、加筆をしました。
今後、ぜひフランクルの本を読むとともに、ナビ7「アート鑑賞セラピー」もお試しいただければ幸いです。
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見出しの言葉・文章は、本人が著書や論文で短い文章で書いていない場合が多く、細山敏之が著者の考え方を短い文章にして、解説をしています。
V.E.フランクル(1905〜1997) 第1回 [2005.5.25]
「自分の未来を信じること」 (『夜と霧』 179頁など。みすず書房)
V.E.フランクルは1905年にオーストリア、ウィーンで生まれる。
彼はウィーンで精神・神経科の医師をしていたが、1942年(37歳)のときにナチスのユダヤ人強制収容所に入れられる。しかし彼は、ナチス・ドイツによるユダヤ人、約600万人の大虐殺「ホロコースト」を生き抜いた。
彼の両親や兄、妹、妻は別の強制収容所のガス室などで殺されている。
開放された1945年に、彼は口述筆記をし、『ある心理学者の強制収容所体験』(邦題は『夜と霧』)が出版され、世界的な大ベストセラーになった。
フランクルは収容所の中で、絶望におちいった人ほど早く死んでいることをたくさん見ていた。
彼はアウシュビッツ強制収容所に送られたときに心理学書の原稿(『医師による魂の癒し』、邦題は『死と愛』)を没収された。彼が生きのびられたのは、必ずまた書いて出版したいという夢を抱き、その時期が必ず来ると、未来を信じていたからであった。
われわれは、この「自分の未来を信じること」がなかなかできない。状況がいいときはよいのだが、状況が悪くなると、つい暗くネガティブに考えてしまう。
彼の考え方はポジティブ思考の最たるもので、身をもって実証したといえる。
「人間は運命より強くありうる」 (『夜と霧』 169頁など。みすず書房)
人間は不幸な状態におちいると、自分の運命を嘆きやすい。 しかし、フランクルは強制収容所に入れられた「運命」を克服して生きた体験から、「人間は運命より強くありうる」という。
つまり、すべての人間に運命を克服する力、方法があるというのである。
なお、フランクルは16歳(1921年)のとき、精神分析の創始者フロイト(65歳)に手紙を書き、文通を2年間していた。またウィーン大学に入学した18歳(1923年)のとき、アドラー(53歳)の個人心理学会に入ったが、彼の説に批判的な見解を発表したため、24歳(1929年)のときに除名されている。
彼は「ロゴセラピー」、「実存分析」という独自の「高層心理学」(深層心理学に対して)を提唱し、ウィーンで活躍したフロイトやアドラーに対して、「ウィーン第三学派」といわれることがある。
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V.E.フランクル(1905〜1997) 第2回 [2005.6.6]
「人生にイエスと言う」 (『それでも人生にイエスと言う』 126頁、162頁など。春秋社)
フランクルはユダヤ人強制収容所の絶望的な状況の中で、苦悩の体験を通して、彼だけではなく、多くの人が内面的に前進して、人間として大きく成長していくのを見た。
人生には、それ自体に意味があり、困窮していても、身体的・心理的な病気で苦しんでいても、死の目前にあっても、すべてに意味があるので、人生にイエスと言うことができるという。
「悪い」ということはなく、すべてに意味があるというフランクルの考え方は、すべての人間の心を楽にしてくれる。
「人間は自分を変えられる」 (『宿命を超えて、自己を超えて』 12頁など。春秋社)
フランクルは、アメリカの刑務所で囚人に講演をしたことがある。
「われわれは、自分の運命を手中におさめて、別の人間になれる」と。
人間は自分自身を乗り超えて成長する責任、罪を犯した事実を乗り超えて成長する責任があるという。
人間であるということは、いつでも他のあり方ができる。つまり、自分をつくり変える能力、自分をつくり出す能力、自分自身を乗り超えて成長する能力が、誰にもあるという。
われわれは自分自身だけではなく、他者をも決めつけて限定して見やすい。しかし、フランクルの考え方は、あらゆる人間の潜在的な可能性を読み取り、人間の考え方と心だけではなく、身体と行動をも開放してくれるのである。
V.E.フランクル(1905〜1997) 第3回 [2005.6.21]
「人生には生きる意味がある」 (『<生きる意味>を求めて』 56頁など。春秋社)
人生を無意味と思ったり、人生に虚しさを感じる若者や大人が多くなっている。また、絶望して自殺をしてしまう人も後をたたない。日本では7年連続して、3万人以上の人が自殺している。
人生の意味を喪失すると、抑うつ状態になったり、攻撃性を増したり、アルコールや麻薬の依存症になる。
フランクルは、どんな条件のもとであれ、「人生には生きる意味がある」という。
それは、苦しみや死の中にさえ意味があり、自分をよりよい自分に変えて、自分自身を乗り超えて成長する機会になるからである。
また、自分を別の誰かに差し出して生きることによって、つまり「自己超越」をすることによって、人は本当の意味で、人間になり、本当の自分になるという。
「人間には精神的無意識がある」 (『識られざる神』 15頁など。みすず書房)
フロイトが衝動的な「無意識」を、ユングが人類に普遍的な「集合的無意識」を明らかしたのに対して、フランクルは「精神的無意識」を見い出している。
良心や愛、芸術的霊感などは、この「精神的無意識」に属しているという。
ユダヤ教を信仰していたフランクルは、「無意識の宗教性」と「無意識の神」を明らかにした。
今まで『聖書』を読んだ人が理解できなかったことを、深層心理学的にキリスト教などのことも理解できて、実践しやすくしていると思う。
フランクルと同じ論法で、細山は、「無意識の仏(ほとけ)」あるいは「無意識の仏心(ぶっしん)」「無意識の仏性(ぶっしょう)」「仏教的無意識」を提案したいと思う。
フランクルはユングの「集合的無意識」を批判しているが、これはフランクルがユダヤ教徒で、立場や視点が異なるためであると思う。ユングは自らの体験と、主な民族の神話を通して「集合的無意識」を裏づけし、理論化している。
専門家がミクロ(小局的)にフランクルとユングを比較して論じると、二つの無意識はまったく異なるものであるということになると思う。
しかし、細山はマクロ(大局的)に考えて、ユングの「集合的無意識」、フランクルの「精神的無意識」は同じとはいえないが非常に似たものといえると思う。それに「仏教的無意識」などをあわせて、人類に共通の「普遍的無意識」とすることを提案したい。詳細については、別の機会に論じてみたいと思っている。
この「普遍的無意識」に、どうしたら達することができるのか、どう現われるのかについては、本ページや「日記」頁などで追って、ふれていきたい。
お経を読んだり、仏像を見たり、拝んだり、祈ること、そして最近提案させていただいたナビ7「アート鑑賞セラピー」の仏画で如来、菩薩、明王などを見ることは、自分の心の中に如来、菩薩、明王などを発見するきっかけになり、発見ができれば「仏教的無意識」に達したことになり、人類に共通の「普遍的無意識」に達したことになる。「悟る」ということは、この人類に普遍的な無意識に到達することであろう。そのとき、心の病は治ることになる。 [2014.2.24 加筆]
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V.E.フランクル(1905〜1997) 第4回 [2006.4.14]
「逆説志向をする」
(『意味による癒し ロゴセラピー入門』43頁など、春秋社。『神経症 1 その理論と治療』151頁など、みすず書房。『生きがい喪失の悩み』77頁、エンデルレ書店など)
志向(しこう)とは「心がある目的に向かう」こと、あるいは「心がある物事を目指して動く」ことである。
人間は、悩んでいるときや心が病んでいるとき、悩みごとや症状にとらわれてしまい、良くなりたいという思いにとらわれてしまう。つまり過剰志向になっている。
また、なぜ自分はこうなってしまったのか、はたして良くなるのだろうか、あるいは治らないのではないかなどと、くよくよと考えて、どうどう巡りをして袋小路に入ってしまう。
そして、不安が不安をよび、あるいは恐怖が恐怖をよんで、「不安や恐怖の連鎖反応」がおこり、「深みにはまっていく」。
「逆説志向」とは、「症状がもっと悪くなってもいい」と、逆に考えて「開き直る」ことである。
「悪くなってもいいと開き直る」ことによって、逆に良くなると、フランクルはいう。
自分を突き放して、自分を客観的に見られるようになるからである。
フランクルは、この逆説志向で広場恐怖症(神経症)や発汗・飛行・ふるえ恐怖症、書痙(指けいれん)、吃音(どもり)、強迫神経症(洗浄強迫など)、不安神経症、睡眠障害、うつ病など、多くの人々の心の病を治している。
禅に、「大死底(だいしてい)の人」という言葉がある。「死に切った人」という意味である。
生きることに執着をするのではなく、今までの自分を捨て去り、「一度、死んだ人」のことをいっている。
「一度、死ぬ」と、「大死一番(だいしいちばん)、大活現成(だいかつげんじょう)」、つまり「新しい生命、真の自分が現われる」というのである。
フランクルの「逆説志向をする」という考え方は、禅の思考法に似ている。
「脱反省をする」
(『意味による癒し ロゴセラピー入門』51頁など、春秋社。『神経症 1 その理論と治療』171頁など、みすず書房。『生きがい喪失の悩み』90頁、エンデルレ書店など)
心を病む人間は過剰に反省をしすぎている、とフランクルはいう。
「反省することをやめなさい!」とフランクルは教えた。
「ケセラセラ」(なるようになる)という言葉がはやったことがあったが、そうした考え方ができれば、「脱反省」ができたともいえる。
フランクルは、この「脱反省」という方法で性神経症(インポテンツ、不感症)などの心の病を治している。
自分は勃(た)たないのではないか、快感を感じられないのではないかと、自分に意識が集中して、くよくよ悩んだりするのではなく、対象(相手)に意識を集中させて、「過剰反省」することをやめさせ、「無心になって相手に尽くすこと=自分を相手に捧(ささ)げること」を薦(すす)めた。
そのとき、真の最高の性的快感(オルガズム)が得られるのである。
禅の言葉に、「放下著(ほうげじゃく)」というのがある。「捨(す)ててしまえ!」という意味である。
つまり、「取り計らう考え方、心、自分を捨ててしまえ!」ということである。
そして、「随処(ずいしょ)に主(しゅ)となる」、つまり、「どこにいても、自分の生命をそそいで生きて、主人公(=真の自分)になりなさい」、というのである。
また、禅には「莫妄想(まくもうそう)」という言葉もある。「妄想することをやめよ!」という意味である。
この「妄想」は心理学・精神医学用語としての妄想だけではなく、「自我にとらわれた思考全体」を含んでいる。
つまり、あれこれと考えて悩むことをやめて、「今を生きよ!」といっているのである。
フランクルの「脱反省をする」という考え方も、禅の思考法と同じである。
フランクルの「逆説志向」「脱反省」という二つの考え方は、禅が心理療法としても効果があることを、深層心理学的に裏づけて証明しているといえる。
いずれにしても、フランクルの逆説志向、脱反省という考え方や禅などと出会い、学ばないと、あるいは長い時間、悩みぬいた末でないと、なかなかできないことであると思う。
両者は自己中心主義の「心の天動説」から「心の地動説」(自分の心を動かす「他己(たこ)」中心主義)への「心のコペルニクス的転回」に役立つといえる。
V.E.フランクル(1905〜1997) 第5回 [2006.5.1]
「心のトリックを使う」 (『夜と霧』90、120、178頁など、みすず書房)
----これで、フランクルはヒトラーに勝った!
フランクルはアウシュビッツで自らの本の原稿(『死と愛』)を没収された後、「強制収容所を出たら本を出版したい」と思い、もう一度原稿を書き始めて、「強制収容所の心理学について人々の前で講演している姿を思い浮かべる」という「(心の)トリック」を使ったと書いている。
これは彼がユダヤ人強制収容所を生きのびられた原動力、理由の一つであった。
フランクルは、この「心のトリック」でヒトラーに勝ったといえる!
この「トリック」という言葉、考え方を読んだとき、『聖書(新約聖書)』にある次の言葉を思い出した。
「神を信じなさい。よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすればそのとおりになるであろう」(『マルコによる福音書』第11章20-24)
この「すでにかなえられたと信じる(思う)」という「心の持ち方」を、フランクルは実践していた!
「プラス思考」、いや「スーパー(超)プラス思考」である。
この「心のトリック」を実行することは、苦悩する自分を客観化して、科学的、心理学的な対象として見て、現在の苦悩、環境を過去のように見る効果があると、フランクルはいう。
『聖書』の上記の言葉を深層心理学的に解釈した文章に出会ったのは初めてであり、『聖書』の言葉に半信半疑だった細山を「なるほど!」と思わせてくれた。
この心の持ち方、考え方をフランクルが「トリック」という言葉で表現したのは、『聖書』を尊ぶ欧米人にとっては、よく知られている言葉、考え方であったからではないかと思う。
無神論者だったフロイト(晩年にキリスト教の価値を認めた)とは異なり、フランクルは熱心なユダヤ教徒(『旧約聖書』を聖典とする)であった。
しかし、フランクルは宗教のことを話したり、書いたりすることは避けていたようで、心理学的、精神医学的な探究、表現をして、普遍性をもたせようとしていた。
細山は30年以上前に『聖書』を読んだとき、信仰、「信じる力」とはすごいと思った言葉の一つであるが、フランクルのいう深層心理学的な意味にはまったく気がつかなかった。
この『聖書』の言葉を知って実践をしたとしても、うまくいかないと、すぐにあきらめたり、挫折してしまい、継続できない。
また、つい疑ったり、「そんなに世の中は甘くない」とか、否定的・消極的な(ネガティブ)考え方、マイナス思考になってしまい、信じ続けることがなかなかできなかった。
しかし、この「心のトリック」は、宗教色を除き形を変えて、現代に生きている。
欧米から伝わってきている現代のスポーツにおけるイメージ・トレーニングや、夢をかなえるという積極的に考える方法(ポジティブ・シンキング)、「プラス思考」、「スーパー(超)プラス思考法」などである。
これらの源流は『聖書』にあると思う。
「苦悩する自分を客観化して、科学的、心理学的な対象として見て、現在の苦悩、環境を過去のように見る効果がある」というフランクルの説明は、この「心のトリック」、知恵を実行しやすくしてくれる。
人一倍(三、四倍!?)疑い深くて、なかなか簡単に神仏などを信じることのできなかった細山は、宗教と深層心理学などに「心の旅」をしてきて、最近「ホンモノの宗教における真実」を無理に信じようとしなくても、それぞれの「象徴的な表現」に違和感がなくなり、「深層心理学的(科学的)な事実・真実」として認められるようになっている。
古代から一部の人間は、「自然や人間、心の不思議さ、神秘、力」に気づいていた。
その事実(真実)と「知恵」に気づいて実践し、「象徴的な表現」をして人々に伝えてきた人が、「聖人」であったと思う。
『聖書』は「信仰の書」であるだけではなく、「心の持ち方の書」、「深層心理学書」であると、細山は思い始めている。
「祈り求めることは、すでにかなえられたと信じる」という「過去形、または過去完了形の思い」は、前回(4/14)に書いた「逆説志向」や「脱反省」にもなり、心を楽にすることになる。
いずれもフランクルのいう「自己超越」をする、つまり「自己(自我)を超える考え方と生き方をする」ことでもあり、心の不安を取り除いてくれることになる。
前回と今回で、フランクルの三つの「考え方(心の持ち方、変え方)」を紹介した。
落ちこんだとき、あるいは悩んでいるときには、ご自分に合った方法を実践することをお薦めしたい。
かならず、心が楽になると思う。
しかし、これらがすぐにはできない場合には、次のことを薦めたい。
「祈る」ということ
「祈り求めることがかなえられたと思う」前に、まず「祈る」ことが必要になる。
結果がどうであれ、「祈る」ことは心を楽にしてくれる。
自分の夢、願望、志を「この世に実現したい」と思い、「祈る」という行為は、特定の宗教に入っていなくても、深層心理学的な意味と価値がある。
「祈り」は消極的な考え方を脱して、積極的な考え方、生き方をする第一歩で、広い意味で「逆説志向」、「脱反省」、「自己超越」としての意義があるからである。
密教において護摩をたいて祈祷をしたりするなど、「ホンモノの宗教」がする行(ぎょう)や儀式などは、「心の世界」にケジメをつけるとともに、新しい「心の世界」を強くつくりだしていくという深層心理学的な意味・意義があると思う。
祈るということは、まず「心の世界」(「空(くう)」=エネルギーの世界)に夢・願望・志を明確にもち、「言葉」にすることであり、それを「現実の世界」(「色(しき)」=物質の世界)に実現したいと思う(念をもつ)ことである。
なお、「空(くう)」と「色(しき)」は『般若心経』にでてくる「色即是空、空即是色」の言葉である。
なぜ、それぞれをエネルギーの世界、物質の世界と解釈したのかというと、アインシュタインのE=mc2(この2は2乗の意味ですが、ソフト「ホームページビルダー9」でまだ組めません。残念!)、つまり、[エネルギー]=[質量]×[光の速度の2乗]という法則で、「原爆の原理」にもなっている法則であるが、この法則をイメージしながら読むと、同経への疑問が一気に解決して、意味がわかるからである。
この解釈は、仏教関係者のしない解釈であるが(仏教者以外でも、こう解釈をした本はないと思う)、20代後半のときに細山は、『般若心経』は科学的な真理をも説いたお経であると気がついた。
詩人、坂村真民の 「念ずれば花開く」という言葉は有名である。
この念は空(くう)=エネルギーの世界のことで、花は色(しき)=この世、物質の世界を意味している。
祈りが「外なる神仏」にたいする「おねだり(!?)」から「己にたいする誓い」になり、全心身をかたむけてエネルギーを注いで生きていくと、「言葉」が響きあう人々との出逢い(愛)をつくり、祈りが実現することになる。
そのとき、人々、社会にも貢献できて、「内なる神仏」が現われてくるのである。
いずれにしても、素直に現在の自分の立場から願望、夢、志を「未来形の祈り」でした後に、「過去形、過去完了形で思い続ける」ことが、自分を客観化して人生に非常に有効であることはフランクルが生命、生死をかけて実証をした。
そのためにも、自己中心の「心の天動説」から自分の心を動かす他己(たこ)中心の「心の地動説」への「心のコペルニクス的転回」を、たえずし続けていくことが大切である。
つい人間は、自分が「心の地動説」になったつもりが、自分中心の「心の天動説」にもどり生きてしまうからである……。
ナビ7「アート鑑賞セラピー」
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